虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

想北國

地震時、街燈絶夜盈黑、因作之。

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地驚途火忽離街
○○○○●●◎
纖阿潛憂貌杳冥
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推戸有風燈耿耿
○○○●●○◎
遙忘居處拜諸星

【句形】
七言絶句、平起、下平9青(冥、星)、踏み落とし。

【大意】
大地がゆれうごいた時、道という道の火は街から離れ去ったのだ。
月の女神も一人愁えるかのように、姿を表わさない。
戸をちょっと押してみると風を感じ、灯(あかり)はほのかに輝いている。
そして遠くを眺めると、もう自分のいる場所も忘れて星々を敬ってしまうのだ。

預言者

 prophet

 神のお告げを特別に聴き、人々に知らせることを職務とする者。予言者ではない。ヘブライ語ではnabiと呼ぶ。
 シャーマンもこれに類するが、特に古代イスラエルに現れた一団を指すことが多い。
 部族連盟の時代を経て、ダビデの元に統一された古代イスラエルであったが、ダビデの子ソロモンの死後、南北に分裂。
 以前から、ユダヤ人は本来信じていた遊牧の神ヤハウェの他に、バアルやアスタルテなど土着の神々への信仰に傾倒するようになっていた。これらの神々は農耕や商売に利益をもたらす要素が濃かった。
 預言者たちは「信じるべきはヤハウェのみ」と人々に立ち返るよう求めたのである。しかしそれはしばしば王権と対立した。そもそもエジプトから虐げられた人々を導き出した歴史からわかるように、「救いの神」ヤハウェは王などという「人の支配」を好まなかったのである。

 アッシリアが北イスラエルを滅ぼし約百年、やがて新バビロニアユダ王国を滅ぼすとその支配者層がバビロンに連れていかれるいわゆる「捕囚」と呼ばれる事件が起こる。国の滅亡以上に、これはヤハウェ信仰が破綻したのだという衝撃を与えた。
 聖書の理解によれば、預言者の警告にも関わらず、王国はヤハウェへの背信を続けた。ヤハウェはその罰として、王国を敵の手に渡したのである。
 この時代の預言者エレミヤは必ずかつての王国が復活し、帰ることがかなうのだという啓示を発した。人々にとってヤハウェが異教の神に負けておらず、神々に必ず勝利すると告げる預言は精神的な糧となった。

 紀元三十年ごろ、ユダヤ教の律法主義を批判し、パレスチナ中を旅していたナザレのイエス磔刑に処された。しかし死の三日後復活し、人々の前に現れたという伝承を「復活した救世主」だと信じる一派が出現する。彼らが後世キリスト教となる宗教を立ち上げていくわけであるが、その際イエスが救世主との証拠を立てるため聖書の中の預言書を引用した。たとえばイザヤ書53章の「苦難の僕」はキリストをさしているのだ――という風に。
 ユダヤ教では、イエス預言者であるが、救世主ではない。

 イスラームではムハンマドは610年、天使ガブリエルから神の啓示をさずかったと教える。
 ムハンマド預言者の封緘であり、彼のあとに預言者が現れることはない、と。
 イエス預言者であるが、救世主とはみなさない。彼は処女マリアから生まれたが、神の子としてではなくあくまで人の子として。
 クルアーンに登場する預言者は多くが聖書と共通するが、一部はクルアーンのみに見える。たとえばサーリフはアラブの民サムードに現れ、偶像崇拝をやめ唯一神への帰依せよと求めるが、信じない人々は神が預言者の徴として遣わした雌ラクダを殺してしまった。神の怒で、住民は町ごと滅ぼされた。

自動車社会って……

 最近自動車学校に通っている。もちろん、自動車免許を取得するためだ。自動車にのれるようになれば、移動できる範囲が広がる。自転車じゃ行けない所にも行けるようになる。自動車に乗って旅するのも悪くないような気が、次第に。
 何回か技能教習を受けていると、確かに自動車を運転することは楽しい。自動車は他の乗物に比べても運転に注意が必要だ。責任が大きい。だからこそ、スリルがある。公道を走ったら、その快感はどれほどか。

 同時に疑う。しかし、自動車ってそれほど素晴らしいものなのか? まあアルダス・ハクスリーのsf小説では「すばらしい新世界」では、T型を発明したフォードはイエス・キリストに代る偉人として祭り上げられている(現代ならさしずめジョブズか?)。昔としては文明の象徴だったのだろう。
 けど、現代ではその悪い所ばかりが目についてしまう。

 自動車の排気ガスで大気汚染が起こってしまうし、自動車の事故で死んでしまう人は跡を絶たない。世界に存在する自動車の数を思えば、戦慄するような損害ではないか。
 それに、自動車を維持するのにも大量のお金がかかってしまう。修理するのも大変だし、安定した生活のためにはむしろ持たない方が吉とさえ。

 自動車が少なくなれば環境汚染は少なくなるし、事故も少なくなる。いいことずくめのはずだ。もちろん、僕は科学文明をむやみに否定するつもりはない。けどやはり、人が移動するのは自然な手段の方が良い。
 歩いたり、あるいは自転車使ったり。空気や距離感をはっきりとつかむためには、そっちのほうがふさわしい。馬車かあ……もう現代では縁遠いもの。
 確かに、映画とかcmで観る自動車は好きだけど、現実に存在する自動車へのあこがれってあんまりないかな。そもそも危ないものだし。バイクにしてもだけど、あんなのがもっと減れば、生活に安全さや静けさが取り戻されるのに。

 自動車を純粋に大和言葉で言い表せば「おのゆきぐるま」とでもなるのか?

最後の審判とは?

 僕が初めて聖書の中身を読んだのは、ある旅行でホテルに泊まった時のこと。
 ホテルの棚の中、一冊の英語と日本語の対訳の聖書。ギデオン協会の発行しているものを、僕は見つけた。
 物心つく前だから、僕はまだ宗教に関する知識をほとんど持ち合わせていなかった。ただ、そこに書かれたことを――イエスの旅やパウロの信仰――を不思議に思って読み進めていた。
 しかし、異様な感情が次に。

 新約最後の文書、ヨハネの黙示録には、世界が終末を迎える時の天変地異があまりにおぞましい筆致によって描き出されている。天使がラッパを吹くと、地上に未曽有の災害が起こり、無数の人間が死ぬことも許されない苦しみを味わう。しかし悔い改めない彼らの間から暴君が現れ、神と激しい戦争に突入していって。
 ヨハネの黙示録はローマによる迫害がひどい頃、一人のキリスト教徒が書いた文書。壮絶な内容は、とても正気の人間によるものとは思われない。
 だが僕はそれを読んで、激しい恐怖感にとらわれた。
 描写が怖かったからではない。それが近い将来、本当に起こることと『信じた』から。

 キリスト教においては、人類の歴史に終局点がある。「最後の審判」――いつになるかは分からないが、しかしこの世の終末に必ず訪れる。
 その時には全ての人間が地中から蘇り、肉と骨を持って神の前に呼び出される。そして、神への信仰を持っていたかどうかで、天国と地獄に結局わりふられるのだ。
 そして歴史は完結する。天国も永遠に続き、地獄も永遠に。

 裁かれないためには、信仰を持たなければならない。あの時感じたのは、多分原初的な神への畏れ。信心を持たない人間なら決して抱かないはずのもの。
 人間の世界は確かにひどい。報われることなんて少しもない。けど、所詮人間の世界でだけ起こることに過ぎない。
 神に見放される方が、はるかに怖ろしい。人間の悪なんてそれに比べりゃ、たいしたことは。
 多分、それが黙示録のテーマではないのかと。

 最後の審判とは、人間界のどうしようもない現実の、神の勝利の約束なのだと思う。
 どんな悲惨な死に方をしても、神への敬虔さがあれば勝組になれる。これを知ってしまった人間に、恐らく怖れるものなど何一なかったろう。だからあれほどの数のキリスト教徒が、苦痛を忍んで壮絶な殉教を。
 僕は彼らの精神性にあこがれを感じた。無論、危険なあこがれだ。とても好奇心で近づいていいものじゃない。

 けど……人間の摂理以外のものを仮定したほうが、生きる意味がわいてくるのはよくあること。

無神論について

 現代では、「私は神を信じていない」という言葉をよく耳にする。日本では特にそうだろうし、ヨーロッパでも最近は宗教離れが著しく、やはり信仰に興味を持たない人間が増えてきているようだ。
 しかし、これは現代社会の特徴というべきだ。人類の歴史を観れば宗教というのはただ単に個人の思想の問題を越えている。「神を信じない」などとはそれこそとんでもない発言。

 そもそもギリシア語で「atheios(神のいない人)」とはただ単に無神論者をあらわす言葉ではない。それは公共的な儀礼であった神々への崇拝を拒否する人間であり、神々への崇拝を拒否することはそのまま社会秩序に反することを意味した。実際、古代地中海世界においてユダヤ教徒がまさに「無神論者」呼ばわりされ迫害を受けた。すなわち、ヤハウェという神のみを信仰し、他の神を信じない態度によって。
 初期のキリスト教徒も、同じ理由でやはり「無神論者」の烙印を一般社会に押され、大量の殉教者を出した。

 どの神(宗教)を信じるか、という問題は実は住所と同じなのだ。イスラーム圏のパスポートには宗教の欄があるというが、これは信心深さを問うているわけではない。どの共同体に属しているか、と尋ねられているのであって。
 イスラームの世界観では、まさしくこの世は信仰の有無によって「イスラームの家」「戦争の家」と二分化されているのだ。
 そのような状況で「神を信じない」と言えば、まさにどの共同体からもはぐれた、アウトローでしかない、ってわけ。江戸時代の日本でも、キリスト教を排除するため、誰がどの宗教・宗派に属するか、細かく調査されたのだし。

 近代になって人々を分ける大きな条件が「宗教」から「民族」へ変わった。これはある意味大きな変革。民族一つ一つが国家を持つべきだとする理論が広まり、そのような理念をかかげる「民族国家」が世界中に立ちあげられた。
 もっともそれが血なまぐさい殺戮の歴史を呼んでしまう……。
 この「民族」概念の不毛さを知っている僕には、むしろ「宗教」によって人間が区分されていた時代の方が健全ではなかったか、という気さえする。「民族」に代わる物をいまだに発見していないのが人類の現状なのだ。

○参考文献

松本宣郎「ガリラヤからローマへ 地中海世界をかえたキリスト教徒」山川出版社
大澤武男「ユダヤ人とローマ帝国講談社現代新書
鈴木董「オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家講談社学術文庫

漢詩「畏天主」

國破人亡天主存
微冥豈許易傷言
曾聞見濟非人利
宗説唯虞其手翻

国破れ人は亡ぬるも天主は存す
微冥 豈に傷つき易き言に許さんや
曽て聞く 済はるるは人の利とならずと
宗は説く 唯だ虞れよ其の手翻へるを

押韻
十三元(存、言、翻)

【大意】
国家は滅びるし人は死ぬが、神だけはなお生きる
こんな無力な存在だ、なぜ壊れてしまいやすい言葉に身を許せるだろう?
昔、救われた人間は人を救わないと聞いたことがあるが、宗教はあのお方の手がひるがえるのを怖れよとだけ説いているのだ。

【後書】
 最近は宗教的なものにあこがれていたりする。キリスト教とかイスラームとかにね。
 死後の世界を見すえた生き方を考える所が実は魅力的だったりするのだ。僕は迷う。信仰を選ぶべきか、信仰しないことを選ぶか……。
 まあ信仰したら、今度は信仰する者同士ですったもんだあるだろうしなあ……。つまり、実際にいずれかの宗教に入りたがってるわけだけど。

音楽の趣味。

 僕が中学校にいた頃、給食の時間になるといつも色んな音楽が流れていた。それが学校での一番の楽しみだった。
 その中には、今でも僕が音を思い出せるものがたくさんある。悲しいことに、音が思い出せても、題名が分からないというのもやはり多い。それくらい、今になって思いかえすと、僕はこの「給食の音楽」に心ひかれていた。
 基本、アニソンやボカロが主な歌を占めていた。それから、当時はやっていたアイドルグループの曲も同じほど。「メルト」「パンダヒーロー」「ロミオとシンデレラ」……記憶にある限でも、よりどりみどり。ボカロ以外なら、「Bad Apple!!」とかね。

 あの頃聴いていた歌が今でも僕の好みの歌となっている。すなわち、僕はアニソンやボカロ、エロゲの歌がとても好きなのだ。逆に言えば、演歌とか歌謡曲とかそんな古い歌にはほぼというか全く興味がない。
 これは僕の趣味としては珍しいことで、文学なら、それこそ漢詩とか古文みたいにだいたい古い時代のものに興味があるのであって、最近の人気小説なんてまず読まないタチだから。

 つか、小説を書く者としてはそれこそ論語とか老子伊勢物語みたいに古い言葉を教えてくれる作品こそ、ラノベとして読むべきではないかと思うよガチで。余談だけど。

 音楽のジャンルはあまり知らないし、興味もないのだが、僕は基本的にロック・メタルと言った分野が好きで、あまり明るい歌というのには関心が向かないらしい。
 あと洋曲だよね。僕が小説を書く霊感を刺激される曲は、基本日本語の歌より外国語の歌の方。歌詞がわからない分、自由な空想を広げやすいからだろう。
 まあ、語学勉強のためには外国語の歌を聴いて歌ってみるのが一番という理由がどこかにあったりするわけだが。

 ところで、「全てあなたの所為です。」が最近一部の界隈で人気を博しているが、僕はこれがとてもエモくて性癖に刺さっている。考察、解釈の余地がある所が気に入っているのだ。特に「..」がいいよね。
 いずれにせよ、新しい歌にばかり注目する性格、それが僕。