無神論について
現代では、「私は神を信じていない」という言葉をよく耳にする。日本では特にそうだろうし、ヨーロッパでも最近は宗教離れが著しく、やはり信仰に興味を持たない人間が増えてきているようだ。
しかし、これは現代社会の特徴というべきだ。人類の歴史を観れば宗教というのはただ単に個人の思想の問題を越えている。「神を信じない」などとはそれこそとんでもない発言。
そもそもギリシア語で「atheios(神のいない人)」とはただ単に無神論者をあらわす言葉ではない。それは公共的な儀礼であった神々への崇拝を拒否する人間であり、神々への崇拝を拒否することはそのまま社会秩序に反することを意味した。実際、古代地中海世界においてユダヤ教徒がまさに「無神論者」呼ばわりされ迫害を受けた。すなわち、ヤハウェという神のみを信仰し、他の神を信じない態度によって。
初期のキリスト教徒も、同じ理由でやはり「無神論者」の烙印を一般社会に押され、大量の殉教者を出した。
どの神(宗教)を信じるか、という問題は実は住所と同じなのだ。イスラーム圏のパスポートには宗教の欄があるというが、これは信心深さを問うているわけではない。どの共同体に属しているか、と尋ねられているのであって。
イスラームの世界観では、まさしくこの世は信仰の有無によって「イスラームの家」「戦争の家」と二分化されているのだ。
そのような状況で「神を信じない」と言えば、まさにどの共同体からもはぐれた、アウトローでしかない、ってわけ。江戸時代の日本でも、キリスト教を排除するため、誰がどの宗教・宗派に属するか、細かく調査されたのだし。
近代になって人々を分ける大きな条件が「宗教」から「民族」へ変わった。これはある意味大きな変革。民族一つ一つが国家を持つべきだとする理論が広まり、そのような理念をかかげる「民族国家」が世界中に立ちあげられた。
もっともそれが血なまぐさい殺戮の歴史を呼んでしまう……。
この「民族」概念の不毛さを知っている僕には、むしろ「宗教」によって人間が区分されていた時代の方が健全ではなかったか、という気さえする。「民族」に代わる物をいまだに発見していないのが人類の現状なのだ。
○参考文献
松本宣郎「ガリラヤからローマへ 地中海世界をかえたキリスト教徒」山川出版社
大澤武男「ユダヤ人とローマ帝国」講談社現代新書
鈴木董「オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家」講談社学術文庫