虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

宗教の拡大する原因

 宗教は政治的あるいは軍事的な出来事が原因で広がってきた。その教義に純粋に感心した人々が増えたことで宗教が栄えたなどという事例は聞いたことがない。アラビア半島から始まったイスラームが徐々に中東一円をのみこんでいったのは、何より預言者ムハンマド以後の君主たちが各地を軍事的に征服していったことに起因する。

 イスラーム法において異教徒は人頭税の支払いによって信仰の自由が保証されたが、イスラーム教徒よりは低い地位。それでもイスラームに改宗すればその義務は免除され対等の身分になれた。社会的地位向上をのぞんで改宗する被征服民がいたことは想像にかたくない。
 キリスト教にしたってそうで、最初はユダヤ教の一分派として始まったものがローマの国教になると旧来の多神教を駆逐してしまった。それ以後はバルト海沿岸に送りこまれた北方十字軍、アメリカ大陸へのスペインの侵攻という風にその拡大には戦争が大きく関わっている。

 戦争が原因でなければ、隣人と帳尻を合わせるために宗教を共有する、という例もある。東南アジアにおけるイスラーム化がそうだ。中東からはるばる船でやってきた商人たちと交易するうち、宗教もその地に入ってきた。宗教は人間の生活・価値観の根底をなすから、それが違うと交流の上で色々と不都合が生じる。それなら同じ信仰を持った方がよいとしてまず支配者層が教えを受け入れていき、やがて庶民へもその流れが伝わっていったのだろう。

 だがいずれにせよ、現世的な利益を求めて(あるいは、やむをえず)改宗する人の方が多いのだ。現世的な利益もないのに改宗する人間はむしろ変わり者と言って可い。
 民族全体が一つの宗教に入信するという現象は、一人一人が信仰について葛藤した末に入信することとは意味が違う。しかし、恐らくこの二つにつながりが全くない、というわけではなかろう。
 キリスト教ユダヤ人や多神教徒に伝わり始めた時代のローマでは、伝統的な神々への祭儀に興味を失い、魂の救いを求める人間が数多くいた。そして、その期待に応えるかのようにマニ教、ミトラス教など新しい宗教が各地で広がり始めていた。このような社会に、現代も近い状況かも。

 ペルシアに起源を持つミトラス教は主に兵士の間で人気になり、「密儀」と呼ばれる少人数の、決して内容を外に告げない儀式を執り行っていた。牛の犠牲をともなう儀式だった。地中海世界の広い範囲でその遺跡が多数発見されている。

 実際、キリスト教徒の神学者たちはこれらの宗教が虚妄であることを証明するために必死であった。「キリスト教でなければ、ヨーロッパはミトラス教になっていたろう」と言われるくらいに。
 後世、滅びた宗教についてはキリスト教側の資料を通じて知るしかない。

 基本、キリスト教と同時代に起こった宗教派は他の神々を信仰することに寛容。だがキリスト教唯一神教。他の神を一切認めない以上、他の宗教を排撃するしかない。ところが他の宗教は複数の神を認める以上、これにあらがう手段を何一つ。
 キリスト教の排他性が、他の宗教を駆逐し、うまい具合に帝国唯一の宗教へと駆け上がらせたのだ。

言語の中の多様性:スペイン語と日本語の比較

 スペイン語は僕にとって非常に興味深い言語だ。基礎的な語彙を切り取っても、たとえばhasta(~まで)はアラビア語に由来するし、izquierda(左)はバスク語から。cara(顔)、estómago(腹)など人体にまつわる語彙にもギリシア語が混じっている。
 歴史的な関係から言っても、古代末期ゲルマン民族の侵入を受けたことでguerra(戦争)など軍事的な用語にゲルマン系の語彙。
 さらに国土の大部分がイスラーム勢力に入っていた時代もあり、道具や食物などアラビア語の単語が多い。そして16世紀末イスラーム勢力をイベリア半島から駆逐した後、征服したアメリカ大陸の新しい事物にまつわる語彙が流れてきて、どんどん言葉の数を増やし続けていった。
 借用語の数の多さが、スペインの歴史の一側面を実によく示すと言える。

 それらがスペイン語そのものの響きを乱さず、うまい具合に調和しているのだから。まさに言語のサラダボールと言ってよい。
 日本語の場合、事態は逆だ。外国語の語彙が溶けこみはしない。カタカナや漢字、ひらがな――文字の違いで、どうしても外国語であることによって文章から浮いてしまう。

 それを日本語が使う文字の問題としても、外来語に対する扱いが日本語の来た道、あり方をよく示しているのではないか?
 第一、漢語の力があまりに大きすぎる。近代になるまではほぼ言葉の借用元はほとんど漢語一強。西洋から入ってきた新しい概念にしても、ほとんど漢語を以て訳してきた。
 現代ではあまりに多くの語彙が英語から入ってきている。英語を通して様々な言語の言葉が入ってきているとしても、原語の音をそのままカタカナで転写することで、「カタカナ語の氾濫だ!」と排斥する動きが起こる。まして「ティ」「トゥ」みたいな音節を新しく作り出したせいで、転写に「ずれ」が生じてしまい、ややこしい問題を創りだすばかり。
 そのような点では、日本語はやはり孤立した環境で育ってきたのだろう。接触した言語の数が少ないのだ。
 もちろんそれは好悪の感情を以て論じることではない。あくまで、たどってきた歴史の違いに過ぎない。

杉山正明「モンゴル帝国の興亡」感想

 歴史を考察する上で、僕にとってモンゴル帝国はどうしても関心を向けざるを得ない国家だ。

 

 ユーラシア大陸の大半を手中に収め、巻き起こった戦争も数知れない。だが、モンゴル帝国は同時に多くの地域を洗練された経済システムによって結びつけ、違う文化間の交流を促進する役割も果たした。今から察ても、実に壮観というべき、魅力的な社会が構築されていったのだ。

 

 この本はチンギス以来のモンゴルの君主がどのようにして領土を広げ、教えてくれる。

 基本的に人種や民族の違いに関心を持たなかった征服者たちは、行く先々で人々を自分たちの仲間として「モンゴル」の枠組に組み込んでいった。例えば南宋の将軍として敵であるはずの呂文煥を、彼が政府との対立の果て降伏するとそのまま司令官として起用するなど、大胆と言うにも程が。
 彼らのやり方は、人種や民族の違いをことさら強調する現代社会においてこそ注目するべきではないのだろうか。


 中央アジアはモンゴルの征服以後イスラーム化が進んだし、元寇と呼ばれる衝突があったにせよ日中間の貿易がこれ以上ないほど盛んになるなど、モンゴル以外の文明が広がる契機にも。

 

 一体なぜこれほどの大事業を成し遂げられたのだろう? 歴史は時に人間の予想を越えて展開するものだ。僕みたいに無知な者には到底推測できない。けどモンゴル帝国が最初、たくさんの部族がわかれ争う場所、中国や西アジアみたいに確固とした権力体制によって支配されていなかった場所に存在した、という事実は見逃せないだろう。

アラブ人名における子称・父称

 アラブ人の間では「部族」(qabīla)という概念がイスラーム以前から現代に至るまで重要な言葉。自分がどの部族の血を引いているか、ということが社会での地位にも関わってくる。


 血筋が重要だということは、すなわち系図が大きな意味を持ってくることに。

 アラブ人には伝統的に苗字に当たるものはなく、基本、親の名前が本人の名前の後に続く。


 たとえば、イスラーム預言者ムハンマドはより正式には、
 ムハンマド・イブン・アブドゥッラー(Muhammad ibn Abdullāh)
 という名前。「イブン」(ibn)は子を意味する。つまり、「アブドゥッラーの子、ムハンマド」という意味になる。ちなみに「アブドゥッラー」は「神の僕」という意味で、ムスリムイスラーム教徒)の間では同じく人気のある名前。
「イブン」が息子であれば、その女性形は「ビント」(bint)。預言者の妻ハディージャ・ビント・フワイリド(Khadīja bint Khwailid)のようにだ。

 

 一方で父は「アブー」(abū)。この名前を持っている最も有名な人物は預言者亡き後のムスリムを統率した第二代正統カリフアブー・バクル(Abū bakr、バクルの父)であろう。この名前も非常に一般化したそれ自体で固定の名前になっている。ISの指導者であったアブー・バクル・バグダーディー(Abū bakr Baghdādī)などは記憶に新しい。
「某の父」は敬意を表し、本名を避けるために使われることもあるらしく、たとえばパレスチナアッバース議長はその名以外にアブー・マーゼン(Abū Māzen)とも呼ばれている。