虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

外国語で小説を書きたい!

 久しぶりにスペイン語の本を音読した。もう勉強し始めて四年経つけど、いまだに聴取ることが鬼門すぎるね。書くことや読むことでしか僕はうまくなれないのだ。正直な話をすると、聴くのってなかなか難しいんだよな……
 日本語を含めて、きりのいい数字で九つくらい習得したいなと。壮大すぎる目標。

 語学学習は生涯をかけて取り組まなければならないことだ。言語は学ぶのが大変なわりには、学び続けるのが難しい。いろんな書物を精読し、多読する必要があるだろうし、自然な発音や言葉遣いを学ぶためには母語話者とも話さなければならない。
 僕はその言語で小説を書けるくらいにうまくなりたいな、って思っている。つまり、僕は外国語を学ぶことを単なる教養で終わらせたくはない。それは実用に供さなければならない。外国語は使うことでしかうまくならないのだっ

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 いいよね。外国人が日本語で創作活動をするのって。その逆も珍しいことではない。言語は時として民族の垣根を越える。というより、越えざるを得ない。色んな文化を渡り歩く人間にとっては。
 難しい言葉ではExophonyとでも言うみたいだね。僕はあまりこの辺に関してはよく知らないけれど、まあ外国語としての英語で、何か専門に書く人は沢山いるのだろうけど、それ以外の言葉で文学をやろうとしてる人となると、めっきり数が減りそうだ。

(漫画やアニメで日本語を学んだ人のことはよく話題に上るし、K-popやドラマで韓国語を習得した人も結構いそうだけど、ハリウッド映画で英語上達した話は寡聞にして聞かない)

 何より、違う言葉で書くことは脳に刺激を与えるだけではなく、自分と他者の違いをよく知ることができる。またその違いを人に伝えることもできる。
 僕もそれを真似したいと思った。あまり人がやらなさそうなことをしない手立てはないからさ。
 多分、どう見られるかってことだ。ほとんどの人間は自分から外国語で何かを書こうとは思いもつかないだろう。ましてそれをやりたいとも望まない。だって外国語をわざわざ使わなければならないというのは不便だし、生まれ持った境遇ならまだしも自分からアイデンティティの境目の上に立つのは、時と場合にとってはとても勇気のあることだと思う。

 ……外国語で小説を書けば注目されるんだろうか。母語で何かを書いても面白くないからさ。だってすでに日本語で書かれた文章は飽和している。どう頑張っても、読まれるかどうかなんて運でしかないじゃないか……。

 日本語の作品はすでに飽和しているし。他の言語はもっと飽和しているだろう。だから母語ではない言語で創作活動をした所で別に特段注目されるわけではない。まして読まれたところで高く評価されるわけでもない。
 いや、他の国の人間に受けようとなんて最初から思ってないんだよ。

 どの言語で書くかっていうのは、ある人にとっては単なる趣味だろうが、また別の人間にとってはアイデンティティの問題だ。読まれる人の感情と、歴史を背負うことでもある。だからそういうのに積極的に関心を持とうとしない僕の試みはあまりに軽すぎるのかもしれない。
 
 それをやってみたいと思うのは、僕の知的好奇心が刺激されることであり、面白いことだと思うからだ。僕は有益なことと面白そうなことしか目指さない性格だから。
 

出典: 

note.com