虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

最後の審判とは?

 僕が初めて聖書の中身を読んだのは、ある旅行でホテルに泊まった時のこと。
 ホテルの棚の中、一冊の英語と日本語の対訳の聖書。ギデオン協会の発行しているものを、僕は見つけた。
 物心つく前だから、僕はまだ宗教に関する知識をほとんど持ち合わせていなかった。ただ、そこに書かれたことを――イエスの旅やパウロの信仰――を不思議に思って読み進めていた。
 しかし、異様な感情が次に。

 新約最後の文書、ヨハネの黙示録には、世界が終末を迎える時の天変地異があまりにおぞましい筆致によって描き出されている。天使がラッパを吹くと、地上に未曽有の災害が起こり、無数の人間が死ぬことも許されない苦しみを味わう。しかし悔い改めない彼らの間から暴君が現れ、神と激しい戦争に突入していって。
 ヨハネの黙示録はローマによる迫害がひどい頃、一人のキリスト教徒が書いた文書。壮絶な内容は、とても正気の人間によるものとは思われない。
 だが僕はそれを読んで、激しい恐怖感にとらわれた。
 描写が怖かったからではない。それが近い将来、本当に起こることと『信じた』から。

 キリスト教においては、人類の歴史に終局点がある。「最後の審判」――いつになるかは分からないが、しかしこの世の終末に必ず訪れる。
 その時には全ての人間が地中から蘇り、肉と骨を持って神の前に呼び出される。そして、神への信仰を持っていたかどうかで、天国と地獄に結局わりふられるのだ。
 そして歴史は完結する。天国も永遠に続き、地獄も永遠に。

 裁かれないためには、信仰を持たなければならない。あの時感じたのは、多分原初的な神への畏れ。信心を持たない人間なら決して抱かないはずのもの。
 人間の世界は確かにひどい。報われることなんて少しもない。けど、所詮人間の世界でだけ起こることに過ぎない。
 神に見放される方が、はるかに怖ろしい。人間の悪なんてそれに比べりゃ、たいしたことは。
 多分、それが黙示録のテーマではないのかと。

 最後の審判とは、人間界のどうしようもない現実の、神の勝利の約束なのだと思う。
 どんな悲惨な死に方をしても、神への敬虔さがあれば勝組になれる。これを知ってしまった人間に、恐らく怖れるものなど何一なかったろう。だからあれほどの数のキリスト教徒が、苦痛を忍んで壮絶な殉教を。
 僕は彼らの精神性にあこがれを感じた。無論、危険なあこがれだ。とても好奇心で近づいていいものじゃない。

 けど……人間の摂理以外のものを仮定したほうが、生きる意味がわいてくるのはよくあること。