虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

中途半端な嘘ほど怖いものはない――徒然草代第73段

 世の中で語り伝えられることの現実は面白くないのだろう、大体嘘八百だ。
 実際にあったことよりも盛って作り話をするのが人間のサガだが、まして時間が経って誰もが言いたい放題に語り散らし、文章にも書かれると、本当に事実だということになってしまう。
 あらゆる芸の素晴らしい人間その道に通じていない人間は何ごとでも「神!」と褒めたたえるが、海千山千の方々は信じようともしない。聞くときと見る時とは何事も変わるものなのさ。

 嘘がばれつつあるのに、頑なに「ほんとだよ!」と言い散らすのなら浮くばかりだ。
 自分自身は心からそう思っているわけではないのだが、
 自分にとって都合のいい嘘は否定しにくい。
 本当はそうじゃないと思っていながら、不確かなことを言うふりをしつつ、現実を巧みにつじつま合わせた嘘ほど恐ろしいものはない。

 またたく間にもてあそび草になった話題は、一人「そういうもんか?」と疑う人がいても、話題にならないどころか、そんな人間ですら証人だってことになっちまう!
 いずれにしろ嘘だらけのこの世界。身分の低い人間の間では耳を疑うような話がたくさん転がってる。レベルの高い人間は変な話なんてしない。

 だからって仏の功徳や聖人の伝記まで疑いだすなよ。世の中のほとんどの嘘を本気になって信じたり、逆にとやかく否定するのも馬鹿らしいから、むやみに信じなかったり、馬鹿にしたりするなってことだ。

……

 嘘とは果実。誰かにとっては苦く、誰かにとっては甘いもの。
 兼好法師が生きていた時代にも嘘の恐ろしさが十分認識されていたわけだね。嘘を嘘だと分かっていても都合がいいから事実だと言い張る奴もいるほどなんだぜ。
『嘘だらけのこの世界で』ああ、何かの小説になりそうなタイトルじゃありませんか。

 原文にある『おごめく』(……鼻のほどおごめきて言ふは……)というのはしばしば『うごめく』の異形として解釈されるが、『をこ(尾籠)めく』の間違いだそうだ。(白石良夫『古語の謎』(中公新書、2010年11月)より)

 たとい信じていなくても、何かの噂を黙って見過ごしている内にその信者にさえされてしまう――これは由々しき問題だ。だからみんな、ある一言を事実・現実にしないために頑張っているんだろうが。これは社会とか世論といった分野では特に重みをもって響く言葉だよね。
 僕も、何かの嘘を本当にしないために何かできるのだろうか。

 今の時代はネットによって噂が広まりやすい。嘘だったり、真相の不明な話はネット上にもたくさんある。
 ただ昔と違うのは、嘘か本当かすぐに分かってしまうのと、噂自体がすぐに霧消してしまうことだ。この時代は情報の伝達が今ほど速くないから、噂が残り続けて一種の伝説に昇華していくのもそんなに珍しくなかったのかもしれない。現代は口承というのはほとんど廃れてしまったように思う。書いた内容が違う人に次々と伝達されていき、もはや由来が不明だが一種のネタとしてネット上に定着する現象はその流れを組むものと見てよいのかどうか。

 何事も疑わずにはいられないが、だからといって聖人の伝記を疑うべきではない、という所に時代を感じる。とにかく妄信するのでもなく、ひたすらに不信なわけでもないという態度を貫くべきだ、とする結論には未来人として好感が持てるのである。

(本来は民衆を扇動する政治家という意味の言葉であるギリシャ語demagogosから派生したデマという言葉が、単に『嘘』という意味にまで下っているのはどういう了見だ?)