虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

久しぶりに

 最近はnoteと小説ばっか書いてたせいでブログはなおざりにしてた。

 pv数が173……ね。もっと伸びるんだろうか。なんだか楽しみだ。いや今連載してる長編はもうすぐ5000pv越えようとしてるんだけど、なぜか手ごたえがないんだよな。感想あんまりもらってないからかな。

 感想もらうかどうかなんて、ほとんど運みたいなもの。小説って、伸悩むんだよどうしても。

 それに比べブログはいいな……一つの題材に縛られる必要がないから。自由に書ける余地が一杯ある。

 

 noteもnoteで一長一短あるからね。noteは売れてる奴の記事ばっか表示されるし、個人的にいいなと思った文章にはなかなか会いにくい。

 ブログの方が他の人の視線は気にせずに済む。まあ、見られる可能性はその分低くなるわけだが……

リセット癖を乗越えて

 僕にはリセット癖がある。これまでも何回となくツイッターのアカウントを消そうとしたり、小説を削除しようと思ってきた。
 そして今、再び僕はツイッターをやり直したいと、強く思う。
 実際自分が積み上げてきた物を察て、「これが俺の望んだことなのか?」と疑ってしまうのである。いや、もと他にいい姿があるはずだと。もっといい自分の表現を求め、今までにやってきたことを消し去りたくなる衝動にいくらでも駆られる。あこがれるのだろう。
 そうする自由は確かに僕にあるのかも。結局はネットという広い世界のごく片隅での判断。
 僕がこれまで書いてきたデータを消し去った所で、ほとんどの人間は困らないのだ。ほとんどの人間は僕の文章を読むことはないし、実際名前「鱈井元衡」を知っている人間はほとんどいない。

 どうせ無名の人間の所業。けれど。

 僕の存在に気づいてくれた人は、現に存在する。僕がもし消えてしまったら、彼らはどう思う?
 しばらくの間、気に留めてくれるだなんて期待はできない。薄情にも忘れてしまう人の方がはるかに多いはず。
 しかし僕は、これまでどれほどの人間が消息を絶ち、行方を問うこともできなくなっているか、その数をかぞえて戦慄したくなるのだ。僕は、そういう人のことを決して忘れたくない。だって、僕はネットにしか希望がないのだから。
 後で僕は何を手に入れるのだ? また一からやり直せば、次こそ僕はやり直さない、という決断ができるか? どうせまた、「全てやり直そう」と決意し、循環するだけ。
 そんな循環に至ると考えると、今のリセット欲も随分くだらないと思えてきそうだから。ならいっそ何一つ消し去らない方がずっといい。

これからどうしようかと悩む自分がクソだせぇ」ってのもある。

 折角自分が積上げ、ある程度は手に入れてきた成果をみすみすぶち壊しにするのか? もっと多くのものを、少しでも長く残したいというのに、途中で 後悔しかない。パワプロクンポケット2でクリアした主人公のデータを大量に削除した、あの忌まわしい思出をまたぞろ繰返すか?
 徒然草にも。

しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり
 なら僕はツイッターとなろうのアカウントをこのまま保存した方が良さそうだ。消す利益がない。

 依然としてリセット癖はぶり返す。実際、今までやってきた事が拙いと感じるために、僕はとりとめのなさ、恥ずかしさで消してしまいたくなるのだ。だが、これまで反応してくれた人を裏切る行為が許されるか?
 だけど……。

 いずれにせよ、この感情には解決のすべがない。

大災厄

 2040年代から2070年代にかけて世界規模、文明の崩壊の過程で起こった超常現象を総称して呼ぶ名前。
 世界史において『古代末期』と言う名前で知られる20世紀末以降は人間のあらゆる叡智が最善の状態に達した時代とされる。しかしこの大災厄がその技術を全て破壊してしまった。以後、人類は長い暗黒の中をさまようこととなる。
 大災厄によって地球上に存在した人間による建造物、文書が多く消えさった事実はしばしば指摘されるが、大災厄そのものの記録は極めて少ない。当時の記録のほとんどがデジタル媒体を使用したものだったため、デジタル技術が断絶した後世には伝えられなかった、という事態がもっとも大きい。
 紙や金属板、石を用いたためかろうじて残った記録によれば数百万人単位の失踪や都市の荒野への変貌、といった現象が報告されている。
 ノートを使用したある古代人の日記では、テレビで人が消え、あるいは知性を失った大衆が街を徘徊するというニュースが流れなかった日は一日もないという。また、約十年の間に数十億人が消滅した、とも。

 記録そのものが限られているため、何年何月に何が起こったか、知ることができるものはごくわずかしかない。
 2084年、大災厄に対処するためと称して地球連合政府が樹立されるが、その実態は虚名に均しく、2093年には戦争状態に突入した。とはいえ人間の数が激減した世界で起こった大戦争など、むしろ大災厄その物に比べればまことささいなものであったろう。だが人間の反目が歴史の終焉を決定づけた。この戦争に関しても、その後の経過がよくわからない。
 世界経済が破綻し、離れた地域同士の交通も途絶えた。科学技術も散佚したために文明水準は産業革命以前に逆戻り。
 また2095~2097年には数か国の政府が機能停止を告げた、との事件も伝わる。
 どの地域も、22世紀後半までの詳しい歴史がよく分からなくなっている。古代末期に存在した国家は全て解体した。今存在するいくつかの国は、大災厄以前から続く歴史を誇るが、牽強付会の域を出るものではない。

伊東俊太郎「十二世紀ルネサンス」感想

今週のお題「読書の秋」

 イスラーム世界の歴史が面白いのは、イスラームという宗教が絶対的に優位を占める社会でありながらその陰にイスラーム以前の宗教がそこに見隠れすることだ。
 ヨーロッパではカトリック教会が絶大な権力を持ってそれ以外の宗派を「異端」と弾劾して徹底的に排除、抹殺したのとは違い、イスラーム世界ではイスラーム以外の宗教の信仰を人頭税や土地税の見返に許した。だから現代に至るまで、キリスト教会の少数派――コプト教会ネストリウス派など――が生き残っている。

 そのイスラーム世界で活躍したキリスト教徒としてまず代表格と思うのが、フナイン・イブン・イスハーク。アッバース朝時代の人物で、ギリシアの古典をイスラームの言語、アラビア語に翻訳する際多大な貢献をなしとげた。アリストテレスユークリッドなど、古代な膨大な知識をアラビア語話者が学ぶことを可能にしたのである。
 そして、イスラーム教徒たちは自らの力で古代の技術を独自に昇華していったのである。イブン・スィーナーやイブン・ルシュドといった哲人の名前は教科書にも載っていたはず。
 翻訳は実に重要な事業だ。翻訳がなければ自分たち以外の地域にある言語で書かれた情報を読むことさえできない。今だって、海外の文学や歴史を僕らが理解できるのは外国語の文章を翻訳する人々の努力があってこそ。まさに、生活になくてはならない物なのである。

 そもそもイスラーム世界こそがヨーロッパより優れている先進地域であった、ということは覚えていて損はない。一時はギリシアやローマに奪われた古代オリエントの繁栄を取り戻すかのようにイスラームという宗教はメソポタミア全域に広まり、軍事的な征服の末に一時はスペインやシチリアにまで到達。
 そう、今あるヨーロッパ世界の一部がイスラームという宗教に支配されていた事実、これも今の世界の成立を知る上で無限く大切。

 重要なことは、シチリアとスペイン、この二つの地域を通してヨーロッパへと持ちこまれ、ラテン語に訳され、ヨーロッパの学術が発展するのを大いに助けた、ということだ。
 シチリアは十一世紀、ヴァイキングに起源を持つ一派ノルマン人がやってくる前までイスラーム教徒の支配下にあった。スペインはそれこそ七世紀末にイスラーム教徒によって征服され、以後北のキリスト教勢との果てしない領土の争奪戦が何百年も繰り返されていたのである。いずれも、イスラームに属する物をいやでも理解しなければならない環境にいた。
 特に、シチリアの場合は東ローマ帝国支配下に入っていたこともあり、ギリシア語を話すギリシア正教会の信徒も多く暮らしていた。それで彼らの力を借り、アラビア語の文献だけでなくギリシア語の文献を翻訳することも行われた。

 陸地や海に何か名前を付けて区別することがどれほど無意味で、誤謬をもたらすか、ということがこの本でよく分かる。国や宗教といった境目を軽々と飛越えてしまう躍動感があるのだ。外から来た文化を吟味し、それを自家薬籠中に収めてしまう才能が、いつの時代にも求められてきた。
 言語を訳し、知識をみんなに伝える……か。まさしく、言語を理解するためにはその土地に行ってその土地の人々と交流することがいいよなあ。実際、そうやって知見を広めた人間があの時代にたくさん現れたわけだから、現代のグローバル化なんぞは目じゃない。
 僕にはなれそうにもないな……と思ってしまう。今とは違って、知識を求めることが大きな困難を伴った時代だったからこそ、その成果もとんでもなくでかいものになった。それが現代では、知識を求めることは一気に簡単になってしまったような錯覚。その錯覚が一番いけないのだ、とは思う。

 知識の価値が、ずっと重く、尊ばれていた期間の方がずっと長いのだから。

日本での「他者」観

 日本人が日本の歴史を観る時、日本人からの視点があまりにも大きすぎて、しばしば日本以外の地域や民族に出自を持つ人が日本のありようを形づくってきた道程を軽視する傾向がある。
 たとえば東京、八重洲という地名はオランダ人の航海士ヤン・ヨーステンに由来するし、伊万里焼や盛岡冷麺はいずれも朝鮮出身の人だ。ざっと僕が知っている例をあげただけでもこういうものがあるし、他にも色んなものが出てくるだろう。
 
 大体、日本の総人口の60人に一人が外国人の血を引いているという時代なのだ。日本の人口が減少し、一方でこの比率はもっと大きくなるはずなのである。
 それにしては、日本が日本人を中心に構成されているという固定観念がいまだ崩れないのはどういうことか。
 多分、外国人や他、民族的少数派がニュースとかで取上げられる際、社会的な問題と関連づけて説明されることが多すぎるからではないか。日常生活で、生身の人間として付き合っている時、国とか人種とかをあまり考えたりしないのが常なのだから。そういう時は「外国人」と相手を観る考えなど浮かんでこないからだ。
 「外国人」という言葉で定義すると内実の不明瞭な集団となり、どうしても峻別してしまう傾向が出る。本来はこの境界線上にいる、どちらとも言えないと考えている人がいるはずなのに。これは自分でも反省しなければなるまいと思う。
 取沙汰されるのは決まって問題がある件なのだから、溶けこんでいる人たちが認知の対象に入ってこないのは当然のことだ。
 この日本で「外国人」と言う時、それは大抵身近な存在ではなく、どこか遠くにいる人々なのだ。しかも、憧れか、もしくは不安要素という実に空疎な感情が伴ってしまう。僕はテレビをあまり観ないけれども、でも多分そういうイメージで染まっているのではなかろうか。
 その言葉を用いる時、一人一人の事情に目を向けようとする態度が欠落している。移民問題を論じる際にも、あまりに移民がまだ来ていない人々、来たらどうなるか分からない人々として捉えられ過ぎていて、すでに日本にいる難民への視点というものは何ら顧慮されない。

 案外、社会の変化というものはいつもこういう風なのかもしれん。アナトリア半島がトルコ化したのは世界史的に察て大事件だが、当の人々にとってはさほど気にすべきほどのことでもなかったのかもしれない。なぜなら、その現象はあまりに遅く、そして、紆余曲折に満ちたものだった。何より、今ほど社会を大きな眼で察る道具がなかったのだから。無論、現代でもそんなものが手に入っているとは思われないけれども。

短歌(2018/11/5-2018/11/11)

1 秋はたち 冬に棲処を ゆづるらし あつささむさも 服にてあそぶ

2 誰がために 命をすてて ゆくべきぞ みな死ぬる者 むなしからずや

3 土をはふ もののにくさに うちなげき そうなるくもの 遥けきを恋ふ

4 いにしへの 人と心をかよはする なかだちぞかし ふみの幸よし

5 古き言 引くたびおなじ ことかねて 思ひけりやと ひとり笑まるる

6 ふみ読まぬ 日のみ過ごさば あらぬこと ふけりもぞする おそるれば読む

7 言の葉の 海にもぐりて さがすとも よき歌出でじ ただよひてこそ

8 朝なれど 日はまだ出でず 見るはやみ いとまありとも 起くるにたらず

9 いたづらに飯をはむまま さとりぬる わがむなしさは これが報いと

10 かく安き さかひに命 たもつこそ からき目みずと 心おもけれ

11 つはものの 壁をみじかき 一振に をさ一人をと つきぬく乙女

聖書の呼び方

 聖書は英語でbibleと書くが、このbibleは元をさかのぼればラテン語bibliaにさかのぼる。さらにこれは『書物』を意味するギリシア語biblionの複数形。つまり、複数の書物をまとめて呼ぶ名前であり、まさに「書物の中の書物」という思がこめられているのである。
 俗に言われる旧約・新約という区別はキリスト教側によるものだ。
 旧約はユダヤ人が神ヤハウェの信仰目的としてまとめられ、ヘブライ語で書かれている。
 新約はイエスが死んだ後イエスを救世主として認める人々が著した文書を集めたものでギリシア語。
 約とはすなわち、契約の約。神との契約を守ることが信仰、との理解が根底に。
 
 キリストの磔刑によって旧い契約は廃棄された。たとえばキリストが神に己を犠牲とささげたので、もはた他の生贄をささげる必要はなくなったのだ……と。
 ユダヤ教の立場ではイエスを救世主としては否定するので、『旧約』の方に書かれた律法は今なお有効である。ユダヤ教は聖書を三つの部分にわける。
 トーラー(律法)
 ネビイーム(預言書)
 ケトビーム(諸書)
 ユダヤ教では聖書全体よりトーラー――創世記~申命記の五書、モーセが書いたとの伝承からモーセ五書とも――を重要視する。トーラーの巻物を安息日に少しずつ朗読し、宗教生活において守らねばならない戒律を導くために解釈していく。

 イスラームは旧約と新約を聖典の一としては認めるが、現存しているものは改竄されたものだと主張している。モーセはタウラー(律法)、イエスはインジール(福音)をもたらし、それらは本来神の意思を伝えていたはずだったが、後に正しい内容が失われてしまったのだ。だからムハンマドがあらたに遣わされたのだと。

 最近では旧約という名称の代わりに「ヘブライ語聖書」と呼ぶそうだ。新約と旧約という呼称があからさまにキリスト教側の視点であるからには。
 ところが、ダニエル記内に若干のアラム語の箇所が存在するので、この名前が事実を正確に表しているとは言い難い。
 してみると、聖書とは実に扱いが難しい存在であるとわかる。そもそも宗教のものなのだから、その内容を完全に真実であると信じて疑わない人間が実際存在するのだ。

 現在は宗教間の対話が叫ばれる時代だからこんなことが問題になる。キリスト教会が絶大な権力を持っていた時代には、名前をめぐってユダヤ教側に譲歩するなどありえなかったはず。だがそもそもユダヤ教キリスト教で聖書のもちい方が全く違うのに、同じ書物として扱うことができない問題なのではないか。言語が違うし、キリスト教内部でも教会ごとに聖書に含める範囲が違うからだ。
 カトリック聖典とされるものが、プロテスタントでは聖典とされないものがある。なぜなら、ルターが旧約のヘブライ語テキストから聖書をドイツ語に訳そうとした際、ヘブライ語に起源を持たないものを外したためである。
 これほど多様性に満ちた、取りまとめようのない書物であることが、かえって面白さをひき立てているのだが。