虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

言語の中の多様性:スペイン語と日本語の比較

 スペイン語は僕にとって非常に興味深い言語だ。基礎的な語彙を切り取っても、たとえばhasta(~まで)はアラビア語に由来するし、izquierda(左)はバスク語から。cara(顔)、estómago(腹)など人体にまつわる語彙にもギリシア語が混じっている。
 歴史的な関係から言っても、古代末期ゲルマン民族の侵入を受けたことでguerra(戦争)など軍事的な用語にゲルマン系の語彙。
 さらに国土の大部分がイスラーム勢力に入っていた時代もあり、道具や食物などアラビア語の単語が多い。そして16世紀末イスラーム勢力をイベリア半島から駆逐した後、征服したアメリカ大陸の新しい事物にまつわる語彙が流れてきて、どんどん言葉の数を増やし続けていった。
 借用語の数の多さが、スペインの歴史の一側面を実によく示すと言える。

 それらがスペイン語そのものの響きを乱さず、うまい具合に調和しているのだから。まさに言語のサラダボールと言ってよい。
 日本語の場合、事態は逆だ。外国語の語彙が溶けこみはしない。カタカナや漢字、ひらがな――文字の違いで、どうしても外国語であることによって文章から浮いてしまう。

 それを日本語が使う文字の問題としても、外来語に対する扱いが日本語の来た道、あり方をよく示しているのではないか?
 第一、漢語の力があまりに大きすぎる。近代になるまではほぼ言葉の借用元はほとんど漢語一強。西洋から入ってきた新しい概念にしても、ほとんど漢語を以て訳してきた。
 現代ではあまりに多くの語彙が英語から入ってきている。英語を通して様々な言語の言葉が入ってきているとしても、原語の音をそのままカタカナで転写することで、「カタカナ語の氾濫だ!」と排斥する動きが起こる。まして「ティ」「トゥ」みたいな音節を新しく作り出したせいで、転写に「ずれ」が生じてしまい、ややこしい問題を創りだすばかり。
 そのような点では、日本語はやはり孤立した環境で育ってきたのだろう。接触した言語の数が少ないのだ。
 もちろんそれは好悪の感情を以て論じることではない。あくまで、たどってきた歴史の違いに過ぎない。