虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

リセット癖を乗越えて

 僕にはリセット癖がある。これまでも何回となくツイッターのアカウントを消そうとしたり、小説を削除しようと思ってきた。
 そして今、再び僕はツイッターをやり直したいと、強く思う。
 実際自分が積み上げてきた物を察て、「これが俺の望んだことなのか?」と疑ってしまうのである。いや、もと他にいい姿があるはずだと。もっといい自分の表現を求め、今までにやってきたことを消し去りたくなる衝動にいくらでも駆られる。あこがれるのだろう。
 そうする自由は確かに僕にあるのかも。結局はネットという広い世界のごく片隅での判断。
 僕がこれまで書いてきたデータを消し去った所で、ほとんどの人間は困らないのだ。ほとんどの人間は僕の文章を読むことはないし、実際名前「鱈井元衡」を知っている人間はほとんどいない。

 どうせ無名の人間の所業。けれど。

 僕の存在に気づいてくれた人は、現に存在する。僕がもし消えてしまったら、彼らはどう思う?
 しばらくの間、気に留めてくれるだなんて期待はできない。薄情にも忘れてしまう人の方がはるかに多いはず。
 しかし僕は、これまでどれほどの人間が消息を絶ち、行方を問うこともできなくなっているか、その数をかぞえて戦慄したくなるのだ。僕は、そういう人のことを決して忘れたくない。だって、僕はネットにしか希望がないのだから。
 後で僕は何を手に入れるのだ? また一からやり直せば、次こそ僕はやり直さない、という決断ができるか? どうせまた、「全てやり直そう」と決意し、循環するだけ。
 そんな循環に至ると考えると、今のリセット欲も随分くだらないと思えてきそうだから。ならいっそ何一つ消し去らない方がずっといい。

これからどうしようかと悩む自分がクソだせぇ」ってのもある。

 折角自分が積上げ、ある程度は手に入れてきた成果をみすみすぶち壊しにするのか? もっと多くのものを、少しでも長く残したいというのに、途中で 後悔しかない。パワプロクンポケット2でクリアした主人公のデータを大量に削除した、あの忌まわしい思出をまたぞろ繰返すか?
 徒然草にも。

しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり
 なら僕はツイッターとなろうのアカウントをこのまま保存した方が良さそうだ。消す利益がない。

 依然としてリセット癖はぶり返す。実際、今までやってきた事が拙いと感じるために、僕はとりとめのなさ、恥ずかしさで消してしまいたくなるのだ。だが、これまで反応してくれた人を裏切る行為が許されるか?
 だけど……。

 いずれにせよ、この感情には解決のすべがない。