虹の発生過程について

何もなさず、何も感じずに生きられたらどんなにいいことだろう?

聖書の呼び方

 聖書は英語でbibleと書くが、このbibleは元をさかのぼればラテン語bibliaにさかのぼる。さらにこれは『書物』を意味するギリシア語biblionの複数形。つまり、複数の書物をまとめて呼ぶ名前であり、まさに「書物の中の書物」という思がこめられているのである。
 俗に言われる旧約・新約という区別はキリスト教側によるものだ。
 旧約はユダヤ人が神ヤハウェの信仰目的としてまとめられ、ヘブライ語で書かれている。
 新約はイエスが死んだ後イエスを救世主として認める人々が著した文書を集めたものでギリシア語。
 約とはすなわち、契約の約。神との契約を守ることが信仰、との理解が根底に。
 
 キリストの磔刑によって旧い契約は廃棄された。たとえばキリストが神に己を犠牲とささげたので、もはた他の生贄をささげる必要はなくなったのだ……と。
 ユダヤ教の立場ではイエスを救世主としては否定するので、『旧約』の方に書かれた律法は今なお有効である。ユダヤ教は聖書を三つの部分にわける。
 トーラー(律法)
 ネビイーム(預言書)
 ケトビーム(諸書)
 ユダヤ教では聖書全体よりトーラー――創世記~申命記の五書、モーセが書いたとの伝承からモーセ五書とも――を重要視する。トーラーの巻物を安息日に少しずつ朗読し、宗教生活において守らねばならない戒律を導くために解釈していく。

 イスラームは旧約と新約を聖典の一としては認めるが、現存しているものは改竄されたものだと主張している。モーセはタウラー(律法)、イエスはインジール(福音)をもたらし、それらは本来神の意思を伝えていたはずだったが、後に正しい内容が失われてしまったのだ。だからムハンマドがあらたに遣わされたのだと。

 最近では旧約という名称の代わりに「ヘブライ語聖書」と呼ぶそうだ。新約と旧約という呼称があからさまにキリスト教側の視点であるからには。
 ところが、ダニエル記内に若干のアラム語の箇所が存在するので、この名前が事実を正確に表しているとは言い難い。
 してみると、聖書とは実に扱いが難しい存在であるとわかる。そもそも宗教のものなのだから、その内容を完全に真実であると信じて疑わない人間が実際存在するのだ。

 現在は宗教間の対話が叫ばれる時代だからこんなことが問題になる。キリスト教会が絶大な権力を持っていた時代には、名前をめぐってユダヤ教側に譲歩するなどありえなかったはず。だがそもそもユダヤ教キリスト教で聖書のもちい方が全く違うのに、同じ書物として扱うことができない問題なのではないか。言語が違うし、キリスト教内部でも教会ごとに聖書に含める範囲が違うからだ。
 カトリック聖典とされるものが、プロテスタントでは聖典とされないものがある。なぜなら、ルターが旧約のヘブライ語テキストから聖書をドイツ語に訳そうとした際、ヘブライ語に起源を持たないものを外したためである。
 これほど多様性に満ちた、取りまとめようのない書物であることが、かえって面白さをひき立てているのだが。